アドレナリン不足

風船

仕事が忙しかったというか、ヤバかった。こんなにヤバかったのは、久しぶり。ヤバい状態なのに、テンションも上がらず、アドレナリンも不足し、淡々とヤバかった。チョコラBBとかリポピタンDとかで無理やり手を動かした。起伏が、なさすぎ。
3年前は、そういうのがあった。真剣にテンパり、それなりの達成感とか充実感のようなものが確かにあったのに。

ところで、自分の変わりなどいくらでも存在し、組織の歯車のなかの交換可能な部品の一部であるという感覚は、イヤではない。歯車に入れてくれてありがとう。感謝している。昔は、イヤだったけど。十代のころとかは。


音楽に全てを注いでいる人の言葉を、じっくり反芻してみる。忘れないように。

どん底を経験して、苦しみながらもストイックに「せつなくて美しい音楽を作りたい」という信念を持ち続ける人の言葉は、重みがある。肝がすわってる。

「表現」にとって大事なのは、「生活」であって、日々の生活が糧となるわけで。プロかどうかによる歴然とした技術的な違いというのは、表現するとか創作するということにとっては重要ではない。なぜなら、もともと音楽は、たとえば、収穫の喜びを歌うとかそういった生活のなかから生まれてきたものであるから。
本当にいいものを作れるかどうか、作れたかどうかという自信は、内側から来るもので、自信や確信をもてるのなら、周りに何をいわれても、信念をつらぬけばよいというか、貫いてしまうものでしょう。

作るということにとって、例えば、「納得がいってないけど、今はコレです」とか「時間がなかったので、コレしかできなくて、本当はもっといけるはずなんだけど・・・」っていうアウトプットの仕方によって、潜在的な可能性をみてもらうということは、無理な話である。最大限出して、納得できているものをアウトプットする以外にありえない。

等身大の自分に身近に感じられた内容がこれだった。


そして、華やかな世界にいると思う人たちの実態は、決して浮かれたものではない。交換可能な組織の一部品でいることより、光輝いていられるけれど、想像もつかないほど、孤独で苦しいに違いない。

だれかが書いてた。三島由紀夫だったか(ちがうかも)、すごくおもいしろい人生を経験するのはすばらしいけど、ものすごくおもしろい小説を書こうと思ったら、おもしろい人生を経験しているヒマがない。ものすごくおもしろい人生を経験してから、ものすごくおもしろい小説を書く技術を身に付けてそれを書いたら、名作ができるかもしれないけれど、人にはそんな時間はない・・・というような。なんとなく印象に残っている。
何か作ろうとする人は、何か犠牲にしている。それだけの価値と信念があり、それをせずにはいられないから。