アーティスト

最近つくづく、アーティストとしてアート作品を作って発表している人を尊敬する。
ここでイメージしている「アーティスト」は、羽生生純の漫画『恋の門』に出てくる蒼木門みたいなキャラクターのこと。内的な芸術への追求のみを基盤に生きてきたため、極貧で、世間知らずで、社会不適応者なのだが、自身の生み出す芸術作品に絶対的な自信を持っている。その芸術作品というのが、「石の漫画」(石を収集して紙に貼り付けたもの)というもので、だれにも理解されない。バカか天才か紙一重(基本バカなんだけど天才かもと感じさせる側面もある)なのだ。説明すると「ふーん」ってかんじだけど、『恋の門』はかなりおもしろい。
何がすごいって、周りに評価されなくても、自信をもてるところがすごい。自信をもつにいたるプロセスをリスペクト。

3年前くらいにtomatoのワークショップに参加したことがある。朝日新聞(朝日公告賞)が協賛しており、通常の料金より格安だったので、大して熱い想いもなく申し込んだのだった。参加者はわざわざワークショップのために海外から来ている人もいたし、様々だったけれど、多いのが、美大生、芸大生、アートディレクターや、プロダクト、ジュエリー、グラフィック、インテリアなど色んな種類のデザイナー、映像やウェブやデジタル系のクリエイターとかで、ちょっと気後れした記憶が・・・。
5日間のあいだ、いくつかの課題を出されて個人とグループで作品を作る。記憶に残っているのは、次のようなもの。

・2人組になって、相手の顔を視覚ではなく、手で感じ、それを模造紙に墨で描く
・10本?だか100本?だかの線を使って何か作る
・グループで何か作る(テーマは忘れた)

自分の作ったものは、とても「作品」には見えなかった。ただのゴミ。邪険に持ち帰って捨てた。
そのときは、線だの視覚以外の感覚だのに集中できず(ばかばかしく思えた)、それでいて、よくわからない「アート」ってものを目指したいという邪心があったかもしれない。
たぶんそれは、長電話しているときに、自然にかいてしまう、ヘンな模様だとか、会議中の落書きだとかそういう無心なものの延長でもよかったんだと思う。

傍から見たら無駄と思えるものに集中して、多大な労力と時間と情熱をかけて作品を生み出す人たちはすごい。その人たちのなかに、それをせざるをえない何かが存在するのだ。その何かへの信念がなければ、作品は生み出せない。

今は、「アート」についてのアカデミックなウンチクには興味がなくなったし、コンセプトやメッセージをわかろうだとかかまえた気持がなくなった。きれいとか、おもしろいとか、テンションあがるとか、気持ち悪いとか、不気味とか、言葉にできない心のゆれとかを感じたらそれでよくて、それ以上でも以下でもないのだろう。